テンションじゃなく、選び取っていく信仰。

以前のうちの信仰って、完全にテンションだった。

「最近賛美しまくってるから上がってる」
「最近下がってるから聖書読めてない」
「グロ行って語られたから今神様がすごいって思える」
「祈りが聞かれたから神様マジ最高」
「最近なんか落ちててぱっとしない」・・・

って、信仰の土台がほんとに不安定だった。
信仰のあり方が、かなり自分の感情とか周りの状況に左右されてたんだ。
だからアップダウンがすごい激しかった。
自分が元気な時は信仰も上がってる、
自分が落ちてる時は信仰も下がってる、って感じだったの。

でもそれって、つまり信仰は気分次第ってことだよね。

でもある時、グロのワーシップリーダーたかちんと語る機会があって、
「たかちんは落ちることとかってないの?」って聞いてみたとこからいろいろ話してる中で、
信仰と感情は違う」ってことを教えてもらったんだよね。

その時うちはもうまさに目からうろこっていうかなんかもう、
「はぁぁーーそぉっかぁぁぁーーーー!!!!!!!」みたいな、
感動的な価値観を教えてもらった瞬間だったんだ。


信仰と感情は違う。
そうなんだ。

たしかに霊・肉・魂は繋がってるから、全く無関係じゃないんだ。
むしろ大いに関係あると思う。
体調悪いと気分も悪くなるしさ、
病は気からって言うしさ、
信仰がダメダメな時感情もダメダメになることもあるしさ、
必ず繋がってはいるんだよ。
うちも信仰と感情は違うって教えてもらってからも
感情にかなり支配されたりしてた。

でも、信仰と感情は違うんだよ。
…今、自分に言い聞かせながら書いてます。笑

うちの感情が落ちてるかどうかに関わらず、
神様って神様なんだ。
十字架の愛の重みが、うちの感情によって変わるわけない。

実際、うちは自分の感情によって
神様の愛や十字架の許し自体を疑った事が何回もあったんだ。

けど、今まで神様が自分にしてくれた事を思うとき
心を神様に向けて語りかけられたとき、
疑ってた自分の弱さと汚さが見えて
それでも変わらない神様の愛を感じるんだよね。

その愛は、うちの感情や状況に左右されて変わるものでも、
なくなるものでもない。
うちがどんな状況にあるかに関わらず、
神様はその愛をもってうちを導いてくれてる。


「恋は感情、愛は意思」
って言うけどさ、信仰も同じだと思う。


気分がいいときとか困った時だけ神様を求めて、
集会とかで刺激受けたらテンション上がって神様とラブラブな気分に浸って、
テンション下がってきたら「最近愛感じない」とか
「魅力感じなくなってきた」とか「他の趣味の方が楽しい」とか
そんな自分勝手な恋みたいな信仰じゃなくて、

状況とか気分とかがどうであっても、
期待して忍耐をもって、意思を持って選び取る信仰に立っていきたい。

一人子を惜しまず与えた神様の愛。
うちのために罪も、傷も、病も負って十字架にかかって
命を捨ててくれたJESUSの愛。

この愛を、テンション次第じゃなくどんな時にも選び取っていく事。
それが信仰なんじゃないかなって最近すごく思う。
ツトムが最近、チョイス種まきっていう日記の中で書いてたんだけど、
「どんなチョイスをしたとしても、結局その実を刈り取るんだよな。」
って、ほんとその通りだと思う。
それは実際の行動だけじゃなくて、
感情を優先するか、信仰を保つ事を優先するかっていう心の動きにも
当てはまることだと思った。

「神様の愛とか祝福とか言うけど、
今気分的に落ちてるし、状況もぱっとしない。
だからその愛も祝福もわかんない。信じられない。」
って、そうやって気分とか状況のせいにして
「信じない選択」をするんじゃなくて。
今の感情や気分、状況は最悪だけど、
信仰に立って、期待して忍耐して愛を選び取り続けるなら
その選び取り(チョイス)による実はハンパない祝福だと思う。
それを刈り取る事ができるんだ。

その祝福を信じて、変わることのない愛を信じて、
どんな時にも神様に信頼しよう。

罪を犯しても、傷ついても、また選び取れずに離れてしまったとしても、
必ずその愛の中に戻ることができるし
実際、自分がそう感じるか感じないかに関わらず
その愛の中で生かされてるんだ。

そのことを、どんな時でも信じていたい。
そして、「信じる」って実際に選び取っていく。

別に大きな働きしてるわけでもないし、
立派なクリスチャンなわけでもないし
ただの弱いへっぽこクリスチャンだけど、
ただシンプルな福音に立って愛を選び取っていく。
それがこれからのうちの信仰スタイルです。


↓↓↓↓↓↓
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
よかったらまたお願いします♪
いつもクリックしてくれてる人、ありがとう!!